遠回り馬券師

遠回り馬券師(1)

私が競馬で儲けようと本気で思いはじめたのは今から18年前、ミスターシービー、シンボリルドルフと2年連続で三冠馬が誕生した頃だったと思う。そのころの私は通信機メーカーの大手M電気の協力会社で工程管理を担当するサラリーマンだった。

中古の車を改造して走らせるほかは、これといった趣味もなく、仕事に追われるだけの毎日であった。仕事に不満を抱きながら文句をいう暇もなく、いつかは辞めてやろうという、執念だか希望だかわからない感情に包まれていたような気がする。

そのような悶々とした状況のなかで、私は上司のKに誘われ、ときどき競馬場に行くようになった。パチンコ以外、ギャンブルに手を出したことがなく、ストレスのかたまりのような当時の私にとって、競馬はなによりも新鮮で刺激的であった。しかしその会社でKに出会っていなければ競馬を覚えることはあっても、ここまで深く嵌ることはなかったかも知れない。

Kは仕事ができて人望も厚かったが、遊び人としても知られていた。私は彼から競馬の手ほどきを受けた。新聞の見方とか穴場(発売窓口)でどうやって馬券を買ったらいいかという初歩的なことからはじまり、平均的な競馬ファンが持つ程度の知識を私が持てるまでかなり丁寧に教えてくれた。しかし、Kが自分自身で買う馬券の検討方法は、いわゆる正攻法なものではなかった。

ある日、Kはポケットから小さな本を取り出しながらいった。 「これがなんだか分かるか」「えっ、なんですかそれは?」 「あんちょこだよ、あんちょこ。5万もしたんだぜ」それは5万円にしてはずいぶん小さいし、薄っぺらだった。  当時の私には、それが一体なんなのかさっぱり分からなかった。とにかくKはそれを使ってちょくちょく馬券を獲っていた。

彼がその秘密の本でいくら稼いでいたのか、収支についてはよく分からなかったが、金回りはよさそうだった。 結局Kは私にその“あんちょこ”の中身を見せなかった。あれだけ気前よくなんでも教えてくれた男が、なぜだろう。まあ、たしかにあの薄っぺらい内容で5万円だ。

よほどの秘訣が隠されているに違いないと、私は信じて疑わなかった。  それから何ヶ月か後のことだ。、ダービーが終わり夏のローカル戦線が始まったころ、Kは会社から消えた。下請け工場の社長とグルになり、架空の注文書を切って会社の金を横領していたのがばれたのだ。

遠回り馬券師(2)

私をまったく先の見えない“馬券迷路”の入り口まで導き、そこに置き去りにしたまま姿を消してしまったKとは、その後連絡をとることもなく ―― はたして連絡をとることができたのかどうか ―― 、私は6月の福島開催を見送った。  馬券は競馬場で買うのが本筋だと思い込んでいたが、福島はあまりにも遠すぎた。かといって、その時だけはどうしても場外に行く気にはなれなかった。

なぜだかは分からないが、馬券についてだけでなく仕事においても頼りきっていた、Kという師匠が突然いなくなった後遺症だったのかもしれない。しかし一度競馬の虜になってしまった以上、そのような状況がいつまでも続くわけがなかった。

新潟の開幕と同時に私は、渋谷の場外に通い始めていた。当時、もちろんWINSなどというシャレた名前がまだ付いていなかった頃の渋谷場外は、2階が500円、1階が1000円単位の枠連だけ、地下で単・複を100円単位で発売していた。

GパンにTシャツ、その上から白い薄手のブルゾンという自分自身の出で立ちがやけに気に入っていた私は、もうすでに馬券師を気取っていた。 いつも万札を2枚か3枚(多い時で5枚くらい)勝負資金として財布に入れていたが、買った馬券とおつりは必ずブルゾンの左胸のポケットにしまいこんで、売り場のテレビで実況を見るのが習慣となっていた。

そういえばKも、買った馬券をいつもワイシャツの胸ポケットに入れていた。べつに真似をしていたわけではないが、そのポケットが一番気分的にもシックリとくるのだ。そのようなこだわりを持つのも、またなかなかギャンブラーらしくて自分自身の気分を高揚させることとなった。

専門紙の印と単純な持ち時計の比較程度のほか、これといった予想の術を知らなかった当時、私の注意を引いたのは場外の予想屋だった。  渋谷の駅から場外に歩いていくまで、たしか3、4件の予想屋が店を出していたはずだ。店といってもご存知のとおり、ビールケースの上にベニヤ板を置いた台に出目本とか新聞とかいろんな資料が置いてあったりして、警察に文句を言われた時は5分もあればサッと店じまいのできるものだ。

店をどこに置けるかによって、予想屋の格がだいたい分かる。場外に近いほど客が寄ってくる良い場所ということらしい。もちろん、格といっても予想が当たる順番ではない。たぶん、その地域を仕切っている方々との関係、もしくはショバ代の違いであろう。

私が最初に興味を持ったのは、場外から最も離れた格下(?)の予想屋である。他の店よりはかなり離れた駅側に、その予想屋はポツンと店を開いていた。場所はともかく一番当たりそうな印象を受けたからである。

今となってはその詳しい内容までは思い出せないが、競馬についての考え方、予想の進め方が私を大いに納得させたことは確かだった。そこで毎回、立ちながら聞いていたその話が、私の中のなにかをいじったのだと思う。 その頃からだ、競馬をとにかく研究しつくしたらそれで食っていけるのではないか、と漠然と思い始めたのは。しかしその時、私は引き返すことのできない “馬券迷路”のなかを、すでに歩いていたのだった。

遠回り馬券師(3)

渋谷の駅から場外に行く途中、一番手前にある予想屋の話を暫く聞いて、そしてときには予想を買ってから歩き出す。「はい、行ってらっしゃい!」と声をかけてくれるのが嬉しい。その予想屋はただ威勢のいい、「予想を売ってなんぼ」の商売人ではなかった。

かなり真剣に、独自の理論を研究しているように思えた。  私はその予想屋の話から、そして自分自身で本を読んだり考えたりしながら競馬の研究を深めていった。場外馬券場で馬券を買って、すぐに家に帰りUHFで中継を見ているだけでは、あまりにもつまらない。

そんな訳で必ず1〜2時間、場外で時間をつぶすことになる。私の場合、馬券の検討は家で済ませてくるのであるが、場外で改めて検討するような性格ではないので、やることがない。そういえば学生のころも試験の直前ギリギリまで教科書を開いてるやつらを尻目にボーッとしているタイプであった。

例の予想屋の話を聞くために、また駅の近くまでわざわざ戻る気にもならず、とりあえず場外馬券場の2階にある喫茶コーナーでアイスコーヒー(250円)を飲み、つぎは場外の向かいの店でフランク(ウインナーの大きいやつ、鉄板で焼く)を食べる。これが基本パターンで、まれに地下の売店でアイスコーヒーのかわりにコーヒー牛乳を飲むこともあったが、そのあとは「さて、何をしようか」ということになる。 

あまり暑くも寒くもないときは、場外の裏手にある神社の境内でボーッとしていれば時間はある程度つぶせる。それなら家に帰ってテレビを見ているのと同じじゃないかというツッコミが入るかもしれないが、私の場合風情のある場所で思索(?)にふけるのが好きなのだ。

しかし、暑い時と寒い時は別だ。場外の入り口に最も近い(ショバ代の1番高そうな)予想屋の口上をついつい聞きにいってしまう。予想の当たり外れとは関係なく、彼らは面白い話題をたくさん持っていた。それだけではない。パフォーマンスも凄かった(まだパフォーマンスという概念が日本にはなかった)。  あるとき、こんなパフォーマンスを目にした。

最終レースが終わり、力なくよたよたと帰るオヤジたちに、「おまえらは、バカだー!」と酒ビンを入れる木箱の上に立って怒鳴っている。「俺の言うとおりに買ってればなー、50万になったんだー!」と、自分の予想を買わなかった客――とことんやられてしまった競馬オヤジたちに、追い討ちをかけていた。ほとんどの予想屋は客を退屈させない。

客が足を止めなければ商売にならない以上、プロとしては当然かもしれないが、予想が当たるだけではダメなのである。 しかし、私が一番関心を持ったのは彼らのうち何人かが売っていた「出目本」である。「今日の1レースはなんだった?そう、2−5だったよな。2−5のときはここのページを開いて…、ここを見る。

2レースはなんだっけ、そこのお兄さん。そう、4−5だよな、ほーらいきなり2レースから2800円的中だ!…。」 その時はすっかり慣れっこになっていたが、初めて見たときは「なーんだ、これだったのか」と思った。会社の上司であったKが持っていたあの秘密の本とほとんど同じだ。

Kは出目本で馬券を買っていたのだ。場外の予想屋が売っていたのは2万円だったが、Kが買ったやつは確か5万円とか言ってたな。しかし会社の金を使い込んだくらいだから、そんなに当たらなかったはずた。ずいぶん高いものを買わされたんだ、かわいそうに。私はその当時、自分なりに正統な予想法をマスターしようと、毎週「競馬報知」―――後に「ファンファーレ」と改名〜廃刊―――を買うようにもなったし、予習は欠かさなかった。しかし、「出目」というものに何か不思議な魅力を感じはじめたのも、その頃からだった。

この話の続編は競馬予想会社の社員になるまでに掲載します。